今の沖縄県民は、辺戸岬の北のほうに横たわる島々を普通は「奄美」と言い、ごくたまには「大島」と呼んだりする。ところが、四百年前までの沖縄の人々は、そこを「おくとよりかみ」と呼んだ。
「おく」は辺戸岬のこと、「と」は海域、「かみ」は北、つまり沖縄本島の北の海域に横たわる地域、という意味である。
「おくとよりかみ」と呼ばれた時代の奄美は、今の沖縄県とともに「琉球王国」のメンバーだった。奄美大島や徳之島、沖永良部島などの役人や神に仕える女性(ノロ)たちはみな地元出身者ではあったが、首里城の国王の許可をもらってその地位に就いていた。
ところが、1609年春、琉球王国は三千の薩摩軍の侵攻をうけ、抵抗むなしく敗れてしまう。たくさんのペナルティーを科されたのだが、その一つが奄美の島々は薩摩のもの、という深刻な現実だった。薩摩のものとなってしまった奄美は、まとめて「道之島」と呼ばれるようになる。薩摩(鹿児島)から琉球(沖縄)に至るルート、ようするに海の道に位置する島々という意味である。
それから以後、奄美は薩摩藩、そして鹿児島県の一部となり、沖縄とは別の歴史をたどった。ところが、太平洋戦争で日本が敗れると、勝利者であるアメリカは、トカラ列島から南の島々を日本から切り離し、直接統治下においた。そして1952年にトカラ列島、その次の年に奄美を日本に返還した。
トカラと奄美の返還は、アメリカによる沖縄統治の固定化と引き換えだった。
それにしても、奄美は沖縄にとってもっとも身近な島々である。琉球王国時代に同じメンバーだったこと、奄美で話される方言(奄美方言)は琉球方言の仲間であること、生活文化の様々な面で沖縄と共通するものが多いことなど、身近な存在である。
薩摩藩・鹿児島県の一部になったとはいっても、奄美と琉球・沖縄県との生活のうえでの交流は切れ目なく続いていた。それに、8年程度の短い年月ではあったが、奄美もまた沖縄と同様にアメリカ統治時代を経験している。
奄美の出身者が沖縄にはたくさん生活しており、沖縄出身者もまた奄美の各地で生活している。そのように身近な地域が北隣りの奄美である。
だが、はっきり言えば、今の沖縄県民は奄美のことを十分に感じていない。
「奄美には、人の住んでいる島がいくつありますか?」と沖縄県民に尋ねると、おそらく10人のうち1人しか答えられないだろう。正解は八。奄美大島・徳之島・沖永良部島・喜界島・与論島の五つはすぐに答えることができるかもしれないが、奄美大島の南隣りに位置する加計呂麻(かけろま)島はまだしも、その南に位置する請島(うけじま)、与路島(よろとう)となると、ほとんどの人が答えられないはずだ。
それに、沖縄県民は奄美の人たちのハートを正確に理解していない。甲子園の高校野球において、沖縄代表と鹿児島代表が対戦したとする。「もちろん、沖縄代表を応援しますよ」と言う奄美の人々の声を聞いて、「奄美は沖縄シンパなんだ」と早合点してはいけない。そういう気持ちをもちろん奄美の人々はもっているが、「鹿児島代表のほうを応援します」、と言う人も当然いる。
もっと大事な点は、できれば奄美代表の高校を応援したい、というハートをしっかり奄美の人々が持っていることではないかと思う。
奄美は奄美であり、心の底では鹿児島(薩摩)でもなく、また沖縄(琉球)でもない、という意識が深くキープされている。奄美には奄美のアイデンティティが深く内包されており、奄美は鹿児島(薩摩)や沖縄(琉球)に属しながらも、同時にまた、そのどちらにも属していない。奄美は、やはり奄美なのである。
沖縄県民は、もっと奄美に行くべきである。そこの水と黒糖焼酎を飲み、さらに奄美の島唄を聴くべきである。
ゆたかな気持ちを持ち、デリケートな人々の住む地域が、沖縄のすぐ北隣りにあることを、自分の感性で感じて欲しいと願う。 |