金丸は、伊是名島を脱出して宜名真へと移った。しかし、彼はそこでもまた村人と折り合わず、妻を置いて中山国へと旅立つのである。金丸は、当時、越来城主であった後の尚泰久と知り合い、臣下として仕える。越来は、北山の侵攻を押さえる要所で、歴代の王朝は越来城に王子を配するのが常であった。
偶然にも越来王子と金丸は同年齢で、金丸の非凡な才能をかった越来王子は、第一尚家四代国王である甥の尚思達のもと首里王府へ金丸を出向させる。王府に上った金丸は、たちまちの中にその才能を発揮し、重臣へと出世していく。
命の保証のない戦国時代、金丸が王家に就職できた理由として次の要素が考えられる。
尚泰久は、金丸と同じ運命で伊是名を脱出した第一尚家の祖・鮫川大主の曾孫であった。大主は、馬天に貿易港を開き、倭人と交易を行い、第一尚家の経済基盤を築いた。倭人の血を引くと思われる鮫川一族と金丸が共に倭人の血を引く者だったとすれば、同郷、同族のよしみで、金丸が第一尚家王族に仕官することも、難しいことではなかったと考えられる。
この後、尚円金丸は尚泰久の家臣というよりは、むしろ、盟友の立場で、側に仕える。一四五三年、第五代国王尚金福が没すると、世子志魯と王弟布里の間に、王位継承をめぐる争いが起こる。勝利者無き内乱の結果、最後の王位継承権を握る尚泰久が新国王となり、腹心の金丸も、重職の任に就くことになる。
一四五八年の護佐丸・阿麻和利の乱を鎮めた尚泰久は、まるで論功行賞のように金丸を外務、経済産業、財務、の大臣職を兼ねる御物城御鎖之側の職に抜てきする。金丸は、国王の側近中の側近として尚泰久を助け、国の経世にあたる。また、尚泰久も、ことごとく金丸のアドバイスをとりいれた国策をおこなっていたと思われる。一四六〇年、新しく尚徳が七代目王位を継承し、尚円は青年国王尚徳の下で九年間仕えることになる。
その後、一四六一、六六年と二回にわたる喜界島遠征は、王国の財政をしだいに疲弊させていく。この財政難を乗り切るために、金丸は中国だけでも十一回、また東南アジア諸国とも、より積極的な交易展開を実施する。プロジェクトの直接の担当者、尚円金丸は、貿易担当者という役職を通じ、久米村にいる中国人達との交流を深くし、交易の実施集団久米三十六姓の信頼を得ていく事になる。
一四七〇年に起こったクーデターによって金丸は臣民に推されて国王の座へと登りつめる。明国に対して禅譲で国王即位の形式をとった金丸は尚姓を引継ぎし、明国への名義変更の手続きを省き、間断なく朝貢貿易を継続した。自分が乗っ取った前王朝の姓を平気で名乗る政策をみても、尚円は並の男ではなく、したたかな政治家であったことがわかる。
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