びあぶれいく
Orion
沖縄のヒーロー&ヒロイン 劇作家 / 亀島 靖
イラスト / 宮城 厚
  謝名親方は、琉球の国難とも言うべき薩摩の琉球入り(一六〇九年)に立ち向かった政治家である。しかし、薩摩の管理下で編纂された琉球国史「中山世鑑」には、国難を招いた元凶とされ、「邪名」という蔑称で記されている。
 歴史は、勝者の記録といわれているが、謝名親方は、まさに現代に至るまで敗者の悲哀を負わされ続けている。
 南海の独立王国だった琉球に、日本最強とうたわれた薩摩藩は、最新の武器・鉄砲を携えて侵攻してきた。当時、日本は戦国時代であり、弱肉強食の風潮からすると薩摩藩にとっては、かねてからの
予定行動であった。
 太平の世になれた琉球国は、防衛する軍事力に欠け、赤子のようにひねられて侵攻軍の軍門に下った。
 鄭迥は、中国の帰化人である久米三十六姓の血を引く生まれで、若くして中国に留学し明国の文化、文明を受け継いでいた。鄭迥にすれば、薩摩の侵攻は独立国・琉球の存続をおびやかす理不尽な侵攻であった。
 娘婿の玉城親方を守備隊長として徳之島に軍を派遣した鄭迥は、自ら三千の兵を率いて戦い、那覇の防衛に当たるが、新兵器を前に敗北の憂き目にあってしまう。
 敗戦国琉球は、尚寧王が捕虜として鹿児島に連れて行かれるが、鄭迥も戦犯として同行させられる。鹿児島に幽閉された鄭迥は、長崎を通じて、明国に琉球への援兵を要請するが、明国には琉球に応えるだけの国力は残されていなかった。
 尚寧王は、駿府で徳川家康に面談し、さらに江戸まで引き回されて、鹿児島へ戻された。
 無条件降伏した琉球国の、国王をはじめとする重臣達は、薩摩藩の支配を受ける為の署名捺印を要求されることとなる。それを拒む者は、生きて琉球に帰ることのできない条件であった。
 しかし、ただ一人、この書面に署名をしなかったのが謝名親方鄭迥であった。尚寧王は、鄭迥の手を取り、「汝、死せば貢典(国の政治)をつかさどる者なし」と琉球に帰るために署名をうながすが、鄭迥の決意を変えることはできなかった。
 薩摩藩に抵抗した鄭迥は、一六十一年、九月十九日、鹿児島の刑場の露と消える運命をたどることになる。帰国して国の再生を計るより、死を選んだ鄭迥の真意は、何であったのかは歴史の記録にない。
 後年、中国の記録書には「国難に殉じた忠臣」と記されている。鄭迥は、自らの死をもって薩摩の侵攻の非を、後世に残そうとしたのではないかとも、考えられるのである。残念なことに、現在でも、鄭迥の評価は薩摩藩の価値観にゆだねられているところがある。
幻の豪傑 比嘉ウチョー
亀島 靖プロフィール
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
 
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